平成の聖徳太子

徒然なるままに日暮らし、頭を使ってなんとかハッピーな野郎になろうとするブログです。

幸せの基準を下げたい

幸せの基準を下げたい。


人生は有限であることは自明の理である。

限られた中でどれだけハッピーな瞬間をたくさん味わえるかが味噌だと、小生は考える。


以前は、幸せとはどれだけドーパミンを放出できたかに依る。従って、高所危険区域で酒飲んで、ハイレートのスロット打って、滅亡間近の清国のジャンキーよろしくハッパを吸って、かつ未知との遭遇を繰り返しまくってる奴が最高に幸せだと考えていた。


しかし、上記のものは私には実現できそうにない。幼少期に培ったガチガチの常識くんが、私の行動を制限するからだ。


上に書いたもので、継続的に実現可能なのはスロットと未知との遭遇くらいである。


しかし、1日の半分弱を労働に奉じている小生には、スロットや未知との遭遇を味わう時間は乏しい。


限られた時間の中で幸せをより多く感じるにはどうすればいいのだろうか。


ソクラテスアリストテレスか忘れたが、人間はポリス的動物であるという。


アイロニックかつ超限定的に解釈すれば、人間は社会の中で、自分の立ち位置を確認する動物であるとは言えないだろうか。言えないかもしれないが、ここは目を瞑って頂きたい。たんにアイロニックという言葉を使ってみたかっただけなのだ。


要は、人間は自分より不幸な人を見れば幸せを感じ、自分より幸福な人を見れば不幸を感じる生き物なのではないか。


したがって、限られた時間の中で、たくさん幸せを感じるには、自分より不幸な人を見るという策が考えられる。


小生は以前から、米軍のネイビーシールズに入るための訓練、通称バッツの訓練動画を見ることを楽しみにしていた。


明らかに自分より種として優っている人間が、厳しい訓練にひーひー言ってるのを見ると、自然とこころ穏やかになったのだ。


ところが、自衛隊の厳しい訓練の動画を見ると、胸糞悪く感じてしまい見れなかった。


自分と同じような顔つき(彼らは私よりよほど精悍な顔つきではあるが)のひとが苦しんでるのを見ると、共感をしてしまうのかもしれない。


したがって、自分より不幸な人を見ると幸せになれるというのは、ある条件のもとで成り立つと考えられる。


苦しそうであれば苦しそうであるほど、幸せを感じられるが、共感や可哀想という感情を持たない程度のものが良い。


今思えば、バッツは最適だったのだ。


訓練生は皆、私より余程屈強かつ聡明であり、自主的に訓練に参加した物であり、かつ優秀な教官によって命が保証されている環境での、アホほど苦しそうな訓練。



最高だ。



私はこれからも、バッツを超える絶妙な不幸や苦しみを探していく。


自分を高められないときは、自分より苦しそうな人を見てホッとするのも良いではないか。


苦しんでいる人も、人を助ける働きをしているということで徳を積めるかもしれない。

自分が苦しいときは、誰かをホッとさせていると思い、自分に価値を見いだせるかもしれない。


私は性格が悪いかもしれないが構う必要はない。自分が幸せになることが、自分にとって最も大切なことなのだから。



なーんて性格悪いこと考えなくても済むくらい、なんでも幸せに感じる天真爛漫さがほしい。切実に。